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聖ガエタノ司祭証聖者   St Cajetanus C.               記念日 8月 7日


 この聖人は1480年イタリアのヴィチェンザに生まれた、父は近衛の最高指揮官であったが、ガエタノが、ようよう2歳の時にこの世を去った。それで彼は二人の兄弟と共に母の手で敬虔に育てられた。
 ガエタノは既に少年時代から司祭になる決心を有していた。そして熱心に勉強し、24歳の若年で法学博士の称号をかちえた。
 やがて彼は聖会の行政に参与するようになったが、叙階の秘蹟を受けて司祭になったのは1516年、即ち彼が36歳の時のことであった。その日から彼は以前にも倍して己を聖とすることに努めた。翌年のクリスマス、彼が教会の厩を前にして熱心に祈っていると、突然聖マリアが現れて彼の手に幼きイエズスを抱かしめ給うた。その時から彼は天主を愛する為にはいかなる犠牲をも辞せぬ覚悟を定めるに至ったのである。
 1518年今度は彼の母が死去した。その臨終の枕元に侍したガエタノは、その後長くヴィチェンザに留まって、病者の看護を目的とする信心の兄弟会を起こした。また彼は不治の病の療養所を設け、そこでいつまでも自ら患者の看護に当たることを望んだ、しかし彼は命ぜられるままにヴェロナに行き、後ヴェニスに移り、そこにも同様に病院を建て、自ら看護の賤しい仕事に携わった。彼の家族の者は皆それに大反対で、口々に非難を浴びせかけたが、彼は感ずべき謙遜と忍耐とを以て一切を甘受したのであった。
 彼に逢うほどの人々、わけても貧者病者の中には、その篤信と敬虔に感化される者が甚だ多かった。事実ミサ聖祭を献げる折りなど、彼は恍惚としてさながら天上に遊ぶ如く見え、またその説教には最もかたくなな罪人をも改心させる力があった。
 ガエタノは更に人々の救いの為活動するつもりで、司祭達の修道会を作った。それまでには随分慎重に熟慮もし、熱心に主の御照らしを祈りもした。ついに彼はその計画を友人なる有為の一法学者に打ち明けた。するとその人は彼を鼓舞激励したばかりか、真っ先にその会員となってくれた。
 テアテの名高い司教カラッファが入会したのはそれから間もないことであった。この人も聖人であるが、その性格はガエタノとは全く異なっていた。カラッファは非常な精力家で、いくら活動しても疲れるということを知らず、優れた行政的手腕を有していた。で、彼はガエタノにとっては会の発展上なくてはならぬ貴重な助手であった。
 彼等はまず教皇の認可を受ける必要があった。ところがその教皇は最初新修道会の認可を少なからず躊躇された。けれどもガエタノを知る数多の名望家の懇願もあり、カラッファ司教の威望の徳もあって、ついに1524年教皇クレメンス7世は同会を公認されるに至った。
 その修道会はガエタノを創立者とするけれど、テアチノ会と呼ばれた。これは謙遜なガエタノが第一代の総長に推薦した司教カラッファがテアテに居住したことに因るのである。しかしカラッファも同様に謙ってガエタノを会の創立者、師父として崇めるにやぶさかでなかった。会の目的は信者に教理を教え、病人を看護し、天主への礼拝を荘厳に執行し、従順、貞潔、清貧の誓願を守って己を聖とするなどであった。
 ガエタノは後諸々方々に修道院を設けたので、しばしば旅行に出かけなければならなかった。彼は至るところで善を行い、天主がその祈祷に応じて奇蹟を示し給うたことも一再ではなかった。ガエタノはまたしばしば争いの調停を頼まれたこともあったが、その賢明な裁定は常に人の推服する所であった。
 とはいえ聖人も苦しみがない訳ではなかった。わけても一つの試練の如きは彼の肺腑を抉るばかりであった。
 1547年ナポリ市に革命が起こった時のことであった。ガエタノはそれに関して不当な誹謗非難を雨と注ぎかけられ心痛のあまり病気にさえなった。彼の医者はあらん限りの手当を講じたが、なお念の為に他の医者を招いて相談しようとした。けれどもガエタノは「私のような貧しい者は。一人の医師に診てもらえばそれで沢山だ」と言って。それを許さなかった。
 彼はまた病中といえども身の安泰を決して計らなかった。そして大いなる信心を以て御聖体の秘蹟を受け、すべての人にわが身の不徳を詫び彼等の厚意を謝し、安らかに息を引き取った。時あたかも1547年の8月7日であった。

教訓

聖堂においては聖ガエタノの如く御聖体の秘蹟を崇め尊び、また敬いと畏敬の心を以てミサ聖祭その他信心の勤めにあずかるがよい。典礼は天主に仕える途であるから、常々それへの理解を深めるよう心がけねばならぬ。